紙に書かれた言葉が好きです。
映像は苦手です。テレビも映画も。
舞台も苦手です。
詩を読むのは好きですが、
朗読される詩を聴くのは、好きじゃありません。
好きなものと苦手なもの。
その差はなんだろう、と考えました。
そして気づいたのは、たぶん
「表現者のカタルシス」が入り込むものが
嫌なんだな、と気づきました。
映像も、自然のドキュメンタリーなら割と好きですが
お芝居はあまり観る気がしないのです。
演者がいて、その人の中を通って表現されるものは
もとの戯曲や詩の言葉とは
違ったニュアンスを持って、見る人に伝わります。
それがいい、と思う人も多いのでしょうけれど
わたしは、なんの脚色もない、
もとの素直な言葉をそのまま受け止め
自分の中で想像の翼を広げるのが好きです。
紙に書かれた文字を読むと、自分との対話が進み
いろんな方向に世界が広がりますが、
お芝居を観ていると、どうしても
「用意されたひとつのストーリー」だけが入ってきて
ちょっと息苦しく感じるのです。
詩は、お芝居以上にその傾向が強く
朗読されてしまうと、演者による解釈が濃く反映されて、
もともとの言葉から受けるはずの想像力が
殺されてしまうように感じます。
長い年月を経て生き残ってきた古い詩の言葉を
読む人の色に塗り替えられるのは、抵抗がありますし、
自作の現代詩を自身で朗読する、という行為には
さらに強い、表現者のカタルシスを感じて、
逃げ出したいような、恥ずかしいような、
居心地の悪さを覚えます。
(でも谷川さんご自身による詩の朗読だけは別で
逃げ出したいような居心地の悪さを感じることは全くなく、
むしろ、詩の言葉が凄みや鋭さを増して
伝わってくるような気がします。
それはやっぱり、谷川さんだから、
谷川さんの書く言葉だから、なのだと思うのです)
わたしにとって詩の魅力は
「答えのないもの」
「どんな解釈も許されるもの」で、
1+1=2 という決まったルールの中で日々を送り、
頭の凝り固まった自分を、
やわらかく解きほぐしてくれるものなので、
誰かの解釈が入り込まない、
素の言葉と接していたいのかもしれません。
だからわたしは、活字が好き。
紙に書かれた言葉が好きなんだと思います。