苦しみの日々 哀しみの日々

苦しみの日々 哀しみの日々
それは人を少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけれど

さなかには心臓も凍結
息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
やがては解るようになるだろう
人の痛みも 柘榴のような傷口も
わかったとてどうなるものでもないけれど
(わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである

受止めるしかない
折々の小さな刺や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから


茨木のり子さんの「苦しみの日々 哀しみの日々」。
ちょっといろいろあって
この詩を思い出しました。
茨木さんの言葉は、厳しいけれど
強くて、まっすぐで、あたたかい。

馴れ合いとか、うわべだけの親切とか、
事を荒立てないための甘い言葉とか、
そういう嘘の優しさは、人を支えてはくれない。
本当に人を支えてくれるのは、
厳しさと強さを持った、嘘のない言葉だと思います。



朋遠方より来たる有り、亦楽しからずや

何年ぶりか(何十年ぶり?)に思い出した
『論語』学而篇の言葉。

今日、わざわざ遠いところから来てくれた
友人を見たとき、ふと
この言葉が頭に浮かびました。

『論語』を実感するようになるって
なんだか…なんだか歳をとったって感じ?

この言葉、いつ習ったんだろう。
中学国語? 高校?
どちらにしても、はるか昔。
そのときは実感が得られなかったたくさんの言葉も、
いま読み返してみると、しみじみ
「そうだなぁ」って思う言葉ばかりです。
さすが…というのも変ですが、さすが論語。


朋遠方より来たる有り
亦楽しからずや。
人知らず、而してА覆Δ蕁砲澆
亦君子ならずや。

「友人が遠くから訪ねて来てくれる。
こんなに嬉しいことはない。
他人に理解されなくとも気にしない。
それは立派なことだ」
…って感じでしょうか。
短い一文に、人生における大事なことが
ぎゅっと凝縮されたような文章で、
なんだかしみじみと、考えてしまいます。

そういえば学生時代、漢文の授業って
けっこう好きだったな。
大学のときも詩経とか書経とか、
漢文系の講義けっこう出てたなー。

その頃に買った論語とか詩経の分厚い本、
大事にとってあるので
近々、読み返してみようかな。

大切なこととか、真理とか、
そういうものは、はるか昔から変わらない。
論語を読むと、そんなふうに思います。
そういうところが好きなのかも。



用意

それは凋落であろうか

百千の樹木がいっせいに満身の葉を振り落すあのさかんな行為

太陽は澄んだ瞳を
身も焦がさんばかりに灌ぎ
風は枝にすがってその衣をはげと哭く

そのとき、りんごは枝もたわわにみのり
ぶどうの汁は、つぶらな実もしたたるばかりの甘さに
 重くなるのだ


ゆたかなるこの秋
誰が何を惜しみ、何を悲しむのか
私は私の持つ一切をなげうって
大空に手をのべる
これが私の意志、これが私の願いのすべて!

空は日毎に深く、澄み、光り
私はその底ふかくつきささる一本の樹木となる

それは凋落であろうか、

いっせいに満身の葉を振り落とす
あのさかんな行為はーー

私はいまこそ自分のいのちを確信する
私は身内ふかく、遠い春を抱く
そして私の表情は静かに、冬に向かってひき緊る。



石垣りんさんの「用意」。
この季節になるといつも思い出す、
とても好きな詩です。

風に舞い散る木の葉を見て、
寂しくなったり、悲しくなったりするのではなく
「あの、さかんな行為」と呼べる、
その感受性。
その精神に、惹かれます。

強く。
もっと強く。


生きる

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谷川俊太郎さんの「生きる」という詩に、
松本美枝子さんの写真を合わせた写真詩集を
きのう「analog books」さんで買いました。

先月の「丘の上のマルシェ」で見かけて、
買いそびれていた、貴重なサイン本。
(刊行記念イベントを水戸で行った際のサイン本なので
茨城でのイベント時に持ってきてるんですって)
よかった、残っていて!

1ページに何行も印刷されているのではなく、
1ページに1行、写真も1点。
その贅沢な構成によって
言葉と写真の強さが、いっそう際立っています。

ひとつページをめくるたび
言葉と写真が、迫力を持って読み手に迫ってくる。
そんな一冊です。


「生きる」

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ

いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ
いのちということ



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谷川さん、文字も雰囲気がありますね。

さあ、今日も
いまを生きましょう。



動物たちが見る夢

日が落ちて辺りが暗くなり始めると
小鳥たちが、こっくりこっくり、
居眠りを始めます。

ごにょごにょごにょ…
かわいい寝言を口にしながら。

小鳥はどんな夢を見ているのかな、と
ときどき思うことがあります。
穏やかな夢を見ているといいな、
と、いつも思います。

そういえば、川崎洋さんの詩に
こんな作品がありました。

犬も
馬も
夢をみるらしい

動物たちの
恐ろしい夢のなかに
人間がいませんように

「動物たちの恐ろしい夢の中に」という詩です。

本当に、そう。
動物たちの夢の中に
恐ろしい人間たちがいないことを祈るばかりです。
…人間たちの夢のなかにも。


窓のある物語

窓の話をしよう。

一日は、窓にはじまる。
窓には、その日の表情がある。
晴れた日には、窓は
日の光を一杯に湛えて、
きらきら微笑しているようだ。
曇った日には、日の暮れるまで、
窓は俯いたきり、一言も発しない。
雨が降りつづく日には、窓は、
雨の滴を、涙の滴のように垂らす。

ことばが信じられない日は、
窓を開ける。それから、
外に向かって、静かに息をととのえ、
齢の数だけ、深呼吸する。
ゆっくり、まじないをかけるように。
そうして、目を閉じる。
十二数えて、目を開ける。すると、
すべてが、みずみずしく変わっている。
目の前にあるものが、とても新鮮だ。
初めてのものを見るように、
近くのものをしっかりと見る。
ロベリアの鉢植えや、
体をまるめて眠っている老いた猫。
深煎りのコーヒーのいい匂いがする。

児孫のために美田を買うな。
暮らしに栄誉はいらない。
空の見える窓があればいい。
その窓をおおきく開けて、そうして
ひたぶるに、こころを虚しくできるなら、
それでいいのである。


長田弘さんの「窓のある物語」。
ときには、ことばが信じられない朝もあります。
そんなときは窓を開けて、
目を閉じて、深呼吸。

花も、緑も、空も、
すべてをまた新しく感じられるように。


私のふるさとは、地方という所にあった

私のふるさとは
地方、という所にあった。
私の暮らしは
首都の片隅にある。
ふるさとの人は山に木を植えた。
木は四十年も五十年もかかって
やっと用材になった。


もし現在の私のちからの中に
少しでも周囲の役に立つものがあるとすれば
それは私の植えた苗ではない。
ちいさな杉林
ちいさな檜林。

地方には
自然と共に成り立つ生業があったけれど
首都には売り買いの市場があるばかり。
市場ばかりが繁栄する。
人間のふるさとは
地方、という美しいところにあった。


石垣りんさんの「地方」という詩が好きです。
杉や檜の植林に関してはいろいろと思うところがありますが…
(単一林の弊害の大きさを知ってしまうと、
雑木林の豊かさを取り戻したい、と強く思います)

「地方には
自然と共に成り立つ生業があったけれど
首都には売り買いの市場があるばかり」
という部分に深く頷きます。
以前は、なんとなく「そうだなぁ」
くらいの気持ちで読んでいたのですが、
いまは、しみじみ、その意味がわかってきて。

土地と深く結びついて
自然と共生しながら働くことは、
ただ売り買いの市場を繁茂させることとは違い、
次の世代へと続く、命の連鎖を
育て、申し送りしてゆくことだと
そんなふうに感じています。

売り買いの市場ばかりが発達すると
消費を繰り返すだけの経済になって
売り買いの裏にある、
命の連鎖に気づかなくなり、
人は、どんどん感覚を鈍らせてしまいます。

豊かさは、消費を拡大させることじゃなく
命を育て、申し送りしていく暮らしの中にあると
本当はもう、みんな気づいているのではないでしょうか。

経済成長だけを豊かさの指標にした時代はもう過去のもの。
そこで犠牲にした、本当に大切なものを取り戻すことが
次の世代に対する、わたしたちの責任、
のような気がします。


目に見えぬものを信じて

素顔で微笑んでほしい
できたら
愛に我を忘れて
その瞬間のあなたは
花のように自然で
音楽のように優雅で
そのくせどこかに
洗い立ての洗濯物の
日々の香りをかくしている

かけがえのない物語を生きてほしい
できたら
小説に騙されずに
母の胸と
父の膝の記憶を抱いて
涙で裏切りながら
涙に裏切られながら
鏡の中の自分の未来から
目をそらさずに

時を恐れないでほしい
できたら
からだの枯れるときは
魂の実るとき
時計では刻めない時間を生きて
目に見えぬものを信じて
情報の渦巻く海から

ひとしずくの知恵をすくい取り
猫のようにくつろいで

眠ってほしい 夢をはらむ夜を
目覚めてほしい 何度でも初めての朝に


谷川俊太郎さんの「できたら」という詩が好きです。

時計では刻めない時間を生きて、
目に見えぬものを信じて。
のところが、とくに。

それはたぶん、
形あるものがすべてじゃないと知り、
教科書どおりの生き方じゃ届かない思いがあると知り、
誰に用意されたものでもない、
自分自身の道を生きてゆく、ということ。

お世辞も愛想笑いも入り込む余地のないほど、
ちゃんと素顔の自分で生きるということ。
それが、本当に生きるということ。

だと、わたしは思うのです。
だから今日も素直に生きましょう。



山なみとほに

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山なみとほに 春は来て
こぶしの花は 天上に
雲はかなたに 帰れども
帰る辺知らに 越ゆる路


今年は花が咲き始めるのが遅かったので
桜と一緒にいろいろな花が咲き残っています。
ふだんなら、3月には散ってしまう
こぶしや、木蓮でさえ
まだ高原では散ることなく
咲き続けていました。

白く淡いこぶしの花と
八ヶ岳の山並みを見ていたら
この、三好達治の「山なみとほく」を
思い出しました。

<遠い山なみを背に、
天に向かってこぶしの花が咲いている。
雲はふるさとに帰ろうとするように流れるけれど
自分は帰る道は知らない。
自分は前に進む。そして道を越えてゆく。>

そうです、
時間は後戻りできないから
わたしたちは進んでゆくしかないのです。
めぐる春に咲く、こぶしの花のように。



木を植える

木を植える
それはつぐなうこと
私たちが根こそぎにしたものを

木を植える
それは夢見ること
子どもたちのすこやかな朝を

木を植える
それは祈ること
いのちに宿る太古からの精霊に

木を植える
それは歌うこと
花と実りをもたらす風とともに

木を植える
それは耳をすますこと
よみがえる無言の自然の教えに

木を植える
それは知恵それは力
生きとし生けるものをむすぶ


谷川俊太郎さんの「木を植える」です。
ご近所の方にいただいた桃の木の枝を
家の庭に植樹したので、
なんだかこの詩を思い出しました。

物質的な豊かさよりも、
木がたくさんある場所こそが
豊かな場所だと思います。

林に、森に、山に囲まれて
暮らしていたいと、そう思います。


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